ぼぶろぐ2

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やさしさって難しい、でも何もしないよりは行動して後悔する方がたぶんマシだ

だいぶ前のこと、車椅子で移動している人が段差を前にして、少し困っている状況に遭った。何とか自力で進もうとしている模様。頑張っているので本人は気付かないみたいだが、通路がつかえて、後ろの人たちが通れなくなっていた。こんなとき、どうすればいいんだろう。

 

すぐに手伝って、段差を乗り越えるのを手伝うべきか。でもその人は、自力で段差を越えることにこだわっているかも知れない。ということは、手伝う事でその人が段差を越えた後に味わうであろう達成感を奪うことになるかもしれない。

 

それともあえて見守って、その人が自力で段差を越えるのを待つべきか。そして、無事に越えるのを見届けて、心の中から祝福を送るべきか。

だが、その人が自力で段差を越えることにこだわっていると、その段差を早く通り抜けたい別の人たちの足を止めることになる。もし、自力で何とかしようという考えの背景には「周囲の人に迷惑をかけたくない」という気持ちがあるのだとすれば、他の人たちに「事情はわかるけど、でもちょっと…」と迷惑がられてしまうことは、その人の本意ではないのかもしれない。となると、やはりその場は手伝って、他の人が通れる状況も作った方がいいのだろうか。

 

人にやさしくするというのは、本当に難しいと、つくづく思う。良かれと思ってやったことが、かえって相手の気分を害することは往々にしてあって、結果としてそれは、自分もかなり落ち込むことになる。だから、本当は何かしてあげたいんだけど、相手も自分も傷つける事になるかも知れない、そんな状況が怖くて結局何もすることができない、そういう人は結構多い気がする。

 

たぶん人間は、自分以外の誰かの役に立ちたい、と本能的に思っているものなんじゃないか。でも同時に、役に立たないんじゃないか、立てないんじゃないか、むしろ傷つけてしまうんじゃないかという不安が、常に隣り合わせになっている。だからその「不安」あるいは「恐怖」を乗り越えるだけの勇気がないと、本当の意味で「やさしく」なれない。などということを逡巡していた数秒の間に、件の車椅子の人は、何事もなかったように段差を越えていった(それくらいの、ちょっとした段差だったのだ)。

 

子供のころは、やさしさを発揮するのに不安も恐怖もなく、素直な気持ちですぐに行動を起こせたような気がする。でも、歳を重ねるごとにそれが少しずつそれが簡単にできなくなってきた。これは果たして成長と言えるのだろうか。それでも人は、いろいろな状況を経験して、失敗したり後悔したりすることで、本当のやさしさが身についていくのだと思う。必要なのは、役に立てなかったらどうしようという、つい動きが鈍りがちな状況を乗り越えられるだけの勇気と自信だ。

 

冒頭の状況においても、どうするのが正しいのかをはっきり答えるのはむずかしい(もちろん、明らかに手伝ったほうが良いであろう状況も多々ある)。ただ、善意が芽生えたときに、自らの良心に従って行動することは概ね正しくて(あえて見守る、という選択肢だって、もちろんアリだ)、消極的な理由で行動をしないというのは概ね不正解のような気がする。

 

ぼくは今まで、良かれと思ってやったことが裏目に出たということがたくさんあって、その都度後悔してきたような気がするけど、残念ながら、「行動しなかった」後悔をもっとたくさんしてきた。そしてやっぱり、行動しなくて後悔するくらいなら、行動して失敗して次に活かす方が何倍もマシだったと、さらに後悔している。だからそろそろ、ぼくももう少し強くならないといけないと思うものの、なかなかカラダは動かない。

 

子供たちには、やさしさの裏付けとなる強さを持ったオトナになってほしいと願っているけど、その手本としては、ぼくはまだまだ未熟だ。