ぼぶろぐ2

音楽、本、家族、たまに筋肉。

村上春樹訳のアメリカ文学は多分楽しめる。少なくとも、村上春樹の書く文章が好きな人には。

 ぼくは今まで、海外の文学にハマるという体験をあまりしたことがないのだが、それはたぶん、翻訳というフィルタがかかってしまっているからだと思う。

 

 ストーリーを楽しむ、という点においては確かに楽しめる要素はあるのだが、文章そのものを楽しむという(ぼくにとっては小説を読む上で結構重要な要素だ)側面においては、翻訳者にかなりの力量と文芸的センスが問われることになり、残念ながら(あくまで僕が読んだことのあるものに限定されるが)大半の場合において、作者が内容ではなく文章そのものに込めたいろいろなこと(それを的確にあらわせない僕も力量がかけている)が、ダイレクトに伝わってこないような気がするのだ。学術書やビジネス書というのはおそらく、文章そのものよりもその内容が重要なことが多いために、より深い理解を促すような意訳が為されることも多々あるのだろうが、小説はそうもいかない。かといって、中途半端に手を入れようとすると、本来のものとは大きく異なるものになってしまう。結果、中途半端な直訳となり、中途半端な文章になっているのではないだろうか。

 

 自分で原書を読めば、確かに少しは作者が伝えようとした事を直接感じる事はできるのかも知れない。ただ、いくら外国語を「勉強」したところで、日本語ほどに外国語で書かれた文章から何かを「感じる」ことはできないのではないかと言う気もする。いまや情報収集するにあたって読むものは英語のほうが多いくらいだし、実際に生活に不自由しない程度には話す事もできるが、それでも、文章そのものから感じ取れるモノは、日本語のほうが圧倒的に多いのだ。やはり僕は今後も、海外の文学を日本のそれほどには楽しむ事はないだろう。

 

 というような考えをここ数年は持っていたのだが、最近村上春樹が翻訳したアメリカの小説を読んでみて、少しだけ捉え方が変わったかもしれない。あれは楽しめた。登場人物がアメリカ人になっただけで、ほぼ村上春樹が書いた小説みたいに感じる事が多いけど、別にそれでいい。ヘンな直訳、中途半端な意訳よりもおそらく、読後感についてだけ言えば、英語を母国語とする人が原書を読んだときと、同じような感触を得ているのではないか、という気がする。村上春樹訳を読んでから、もう一度原文にチャレンジしてみよう。

 

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)