ぼぶろぐ2

音楽、本、家族、たまに筋肉。

僕が本を読む理由は、ただ面白いからであって、断じて「役に立つから」ではない

 ぼくはどちらかと言えばわりと本を読むほうだとは思う。少なくとも通勤電車の中で毎日往復合計1時間ほど、昼休みに少々、寝る前にも少々、あと、トイレとか。そうやって計算していくと、1日に90分は本を読んでいる事になる。以前はその大半が業界誌なども含めた仕事関係のものが多かったのだが、今は極力、仕事に関わるものは読まないようにしている。そのぶん最近は小説と、小説家をはじめとした文章を書く事を生業としている人が書いたエッセイを読んでいる。いずれも、仕事や日常生活に直接役に立つことはまずない。でもぼくの生活は、仕事関係のものばかり読んでいた時よりも今の方が圧倒的に(あくまで気分的な面において)豊かだ。

 

 ビジネススクールを修了して、まもなく1年たつが、会社でも家でも勉強に追われ続けていた当時の反動で、いまだに、仕事に直接関わる本やビジネス書を業務時間外に読む気にならない。昨年までの2年間は、通勤電車のなかで講義の録画を見て、家に帰ってからはオンラインのディスカッションに参加したり課題をやったりで、純粋に楽しむための読書の時間が作れなかった。正確に言えば、睡眠を優先して本を読むことをあきらめた。それは知らず知らずのうちに僕の中で大きなストレスになっていて、時として、翌朝に課題の提出が迫っているのにうっかり村上春樹の小説(しかも読んだ事あるやつ)を読み始めて明け方を迎えてしまったりしたこともあった。そしてギリギリのところで課題を提出して寝ずにそのまま会社に行く、というのが何か月かに1回はあって、修了してから数か月後に、潜在的に蓄積された疲労が顕在化して体調を崩した。

 

そういう生活から開放されたいま、自分の時間がもったいなくて「勉強になる」「役に立つ」読書なんて絶対にしたくない。

 

 昔はよく、ビジネス書(にカテゴライズされそうなもの)をよく読んでいた。いわゆるビジネス書コーナー(=売れ筋コーナーになっていることが多い)に所狭しと置いてある「読めば人生が変わる」みたいな本をつい、「そんな簡単に人生変わるわけないだろう」と思いながらも手に取り、辞めておけばいいのに何かできそうな気がして買ってしまい、そして読んでも行動を起こさない自分にむしろ自己嫌悪に陥る。こういう悪循環を結構なペースで自ら発生させていたような気がする。今思えば、その時間を使ってフィッツジェラルドでも読んでおけばよかった(最近読んだ)。

 

 成功者がゴーストライターに書かせた武勇伝よりも、色々な失敗を繰り返しながら生みの苦しみを味わってきた小説家が自らを卑下して書くエッセイのほうが、文章そのものに色々なものが染み込んでいるような気がする。書く事自体を生業としていることもあって、文章に直接魂をこめるということが自然にできるのかも知れない。少なくともそこには余分なフィルタがなくて、色々な事柄を見聞きして感じて考えて、そして、まだまだ(あるいは永遠に)到達できないかも知れないという悟りを開きつつもまだ到達すべき目標への途上にある、生きる希望はその道筋の上にしかない、そんなふうに思えることが書いてある。

 

 そんなわけで今日も、面白い本を求めて本屋に立ち寄った。本当は自分が書き手の側に回りたいと思いながら。

 

 

 

日乗

 

 出張で北関東へ、片道3時間の旅。非効率だが移動の湘南新宿ライン車内は貴重な読書時間になる。今日はもともと早く帰宅する予定だったけれど、エライ人が同じ電車に乗る気配を察知、息をひそめてやり過ごした。大切な一人の時間を奪われるわけにはいかない。次の電車が来るまでの空き時間、駅建屋内の本屋で物色。そこで西村賢太著「一私小説書きの日常」を発見、購入した。

 ただの日記、それも、誰と会った何を食ったという類の淡々としたもので、ドラマチックな展開もなければ興味をそそられる物語もない。にも関わらず、なぜか100分間休まず読み耽った。ほとんど読み終わった。わかったことは、高田文夫と宝焼酎が好きなこと、寝る前に良く食べること、石原慎太郎を尊敬していること、そして日々いろいろな人と会っているということ。著者はかつての自身の境遇と比べて現在の日々に感謝をしている旨が伝わってくる。なんていうのかな、この人はすごく自由だ。少なくとも精神的にはものすごく自由に見える。自由という言葉の定義にもよるだろうけど。きっと物理的・経済的には不自由だったであろう時期から、ずっと自由であり続けようとしたんだと思う。それも、何かに抗って自由を獲得しよう、というのではなくて、ただ、その時からずっと自由だったのだ。それはあくまで僕の目から見てであって、彼自身が自由だと感じていたかどうかはわからない、おそらく違ったのだろう。でも、誰も読まないかも知れない、小説を書き続けるという行為そのものが、すごく自由に感じられる、少なくとも僕には。書けば僕だって自由になれる。

 

今のところはフィクション

きょうはエイプリル・フールだけど、これからいうことは嘘じゃないんだぜ。あした、会社をやめる。モノカキになるんだ。さようなら。まず、ホノルルへ。ついでニューヨークからフロリダへ。そこで自由への片道切符をうけとることになっている。さようなら。会ってからいきたかったけれど、もうおそい。またいつか、どこかで会おう。それまで元気で。さようなら。きょうの横浜は猛烈に寒くて、ひどく頭が痛い。冬と風邪が、そろって一度に逆襲してきたみたいだ。けれどもあしたはなつかしい心のふるさとホノルルだ。うれしさがこみあげてきて、ぞくぞくする。さようなら。そこからさきは、たぶんずっと夏がつづくのさ。きょう、『コロンブスの犬』を読んだ。舞台はブラジル、なんだかすごく素晴らしい作品だった。下手な旅人、ビタミナ・セをすすめる部屋係のおばさん、きわめて詩的な日本語。()の多用。()の中こそが<書く旅人>にとっては重要な伴侶だ。()がたくさん出てくるエセーはぜんぶ好きだ。いまのところぼくにとっては、それがエセーについての唯一の判定基準だ。ジル・ラプージュの「赤道地帯」についても書いてあった。「1988年の北半球のなつ、ぼくはぼくの心の首都ホノルルの小さなアパートで『赤道地帯』の翻訳を続けていた。」この一文だけで、それがめちゃくちゃにおもしろいってことがわかる。でももうおそい。読むことができない。こんどは、いつ、どこで、その本に会えるかわからない。フロリダでも絶版になったその本を手に入れられるってこと、誰か保証してくれるだろうか。さようなら。機会があったらぜひ読んでくれ。それを読んだら、ぼくのぶんまで、ブラジルに思いを馳せてくれ。

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コロンブスの犬 (ラテンアメリカ・シリーズ―コレクション・ブラジル)

コロンブスの犬 (ラテンアメリカ・シリーズ―コレクション・ブラジル)

 

 

2014年に読んだ本の中で一番(今まで読んだすべての本の中でも3本の指に入る)衝撃を受けた本、管啓次郎の『コロンブスの犬』。こんなに「文章そのもの」を味わえる本を初めて読んだ。こんな風に文章が書けたらステキだろうな。たとえその内容がどんなものであってもね。実際、一番衝撃を受けたわりに、どんな内容が書かれていたかはあまり覚えていないんだ。はじめからおわりまで、ただただ読む愉しみに満ちていた。そしてもう一度じっくり味わうために、冒頭のパラグラフのパロディを書いてみた。今のところはフィクション。でもいつかは本当のことになる。何年後のエイプリル・フールになるかはわからないけれど(それはもしかしたら今年かも知れないし、あるいはエイプリルフールとは限らないけれど)。

村上春樹訳のアメリカ文学は多分楽しめる。少なくとも、村上春樹の書く文章が好きな人には。

 ぼくは今まで、海外の文学にハマるという体験をあまりしたことがないのだが、それはたぶん、翻訳というフィルタがかかってしまっているからだと思う。

 

 ストーリーを楽しむ、という点においては確かに楽しめる要素はあるのだが、文章そのものを楽しむという(ぼくにとっては小説を読む上で結構重要な要素だ)側面においては、翻訳者にかなりの力量と文芸的センスが問われることになり、残念ながら(あくまで僕が読んだことのあるものに限定されるが)大半の場合において、作者が内容ではなく文章そのものに込めたいろいろなこと(それを的確にあらわせない僕も力量がかけている)が、ダイレクトに伝わってこないような気がするのだ。学術書やビジネス書というのはおそらく、文章そのものよりもその内容が重要なことが多いために、より深い理解を促すような意訳が為されることも多々あるのだろうが、小説はそうもいかない。かといって、中途半端に手を入れようとすると、本来のものとは大きく異なるものになってしまう。結果、中途半端な直訳となり、中途半端な文章になっているのではないだろうか。

 

 自分で原書を読めば、確かに少しは作者が伝えようとした事を直接感じる事はできるのかも知れない。ただ、いくら外国語を「勉強」したところで、日本語ほどに外国語で書かれた文章から何かを「感じる」ことはできないのではないかと言う気もする。いまや情報収集するにあたって読むものは英語のほうが多いくらいだし、実際に生活に不自由しない程度には話す事もできるが、それでも、文章そのものから感じ取れるモノは、日本語のほうが圧倒的に多いのだ。やはり僕は今後も、海外の文学を日本のそれほどには楽しむ事はないだろう。

 

 というような考えをここ数年は持っていたのだが、最近村上春樹が翻訳したアメリカの小説を読んでみて、少しだけ捉え方が変わったかもしれない。あれは楽しめた。登場人物がアメリカ人になっただけで、ほぼ村上春樹が書いた小説みたいに感じる事が多いけど、別にそれでいい。ヘンな直訳、中途半端な意訳よりもおそらく、読後感についてだけ言えば、英語を母国語とする人が原書を読んだときと、同じような感触を得ているのではないか、という気がする。村上春樹訳を読んでから、もう一度原文にチャレンジしてみよう。

 

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

やさしさって難しい、でも何もしないよりは行動して後悔する方がたぶんマシだ

だいぶ前のこと、車椅子で移動している人が段差を前にして、少し困っている状況に遭った。何とか自力で進もうとしている模様。頑張っているので本人は気付かないみたいだが、通路がつかえて、後ろの人たちが通れなくなっていた。こんなとき、どうすればいいんだろう。

 

すぐに手伝って、段差を乗り越えるのを手伝うべきか。でもその人は、自力で段差を越えることにこだわっているかも知れない。ということは、手伝う事でその人が段差を越えた後に味わうであろう達成感を奪うことになるかもしれない。

 

それともあえて見守って、その人が自力で段差を越えるのを待つべきか。そして、無事に越えるのを見届けて、心の中から祝福を送るべきか。

だが、その人が自力で段差を越えることにこだわっていると、その段差を早く通り抜けたい別の人たちの足を止めることになる。もし、自力で何とかしようという考えの背景には「周囲の人に迷惑をかけたくない」という気持ちがあるのだとすれば、他の人たちに「事情はわかるけど、でもちょっと…」と迷惑がられてしまうことは、その人の本意ではないのかもしれない。となると、やはりその場は手伝って、他の人が通れる状況も作った方がいいのだろうか。

 

人にやさしくするというのは、本当に難しいと、つくづく思う。良かれと思ってやったことが、かえって相手の気分を害することは往々にしてあって、結果としてそれは、自分もかなり落ち込むことになる。だから、本当は何かしてあげたいんだけど、相手も自分も傷つける事になるかも知れない、そんな状況が怖くて結局何もすることができない、そういう人は結構多い気がする。

 

たぶん人間は、自分以外の誰かの役に立ちたい、と本能的に思っているものなんじゃないか。でも同時に、役に立たないんじゃないか、立てないんじゃないか、むしろ傷つけてしまうんじゃないかという不安が、常に隣り合わせになっている。だからその「不安」あるいは「恐怖」を乗り越えるだけの勇気がないと、本当の意味で「やさしく」なれない。などということを逡巡していた数秒の間に、件の車椅子の人は、何事もなかったように段差を越えていった(それくらいの、ちょっとした段差だったのだ)。

 

子供のころは、やさしさを発揮するのに不安も恐怖もなく、素直な気持ちですぐに行動を起こせたような気がする。でも、歳を重ねるごとにそれが少しずつそれが簡単にできなくなってきた。これは果たして成長と言えるのだろうか。それでも人は、いろいろな状況を経験して、失敗したり後悔したりすることで、本当のやさしさが身についていくのだと思う。必要なのは、役に立てなかったらどうしようという、つい動きが鈍りがちな状況を乗り越えられるだけの勇気と自信だ。

 

冒頭の状況においても、どうするのが正しいのかをはっきり答えるのはむずかしい(もちろん、明らかに手伝ったほうが良いであろう状況も多々ある)。ただ、善意が芽生えたときに、自らの良心に従って行動することは概ね正しくて(あえて見守る、という選択肢だって、もちろんアリだ)、消極的な理由で行動をしないというのは概ね不正解のような気がする。

 

ぼくは今まで、良かれと思ってやったことが裏目に出たということがたくさんあって、その都度後悔してきたような気がするけど、残念ながら、「行動しなかった」後悔をもっとたくさんしてきた。そしてやっぱり、行動しなくて後悔するくらいなら、行動して失敗して次に活かす方が何倍もマシだったと、さらに後悔している。だからそろそろ、ぼくももう少し強くならないといけないと思うものの、なかなかカラダは動かない。

 

子供たちには、やさしさの裏付けとなる強さを持ったオトナになってほしいと願っているけど、その手本としては、ぼくはまだまだ未熟だ。

 

今日も重松清の小説に心をえぐられる

重松清の小説はとにかくココロに刺さるものがおおい。ものすごく深いところに瞬時に届いて、えぐられる感じ。すべての作品を読んだわけではないが、特に長編は、いままで読んで涙が出なかったものがないんじゃないかというくらい、とにかく刺さる。

 

重松清の小説には、ひとつ、大きなテーマがあるような気がする。挫折と再生。夢破れたり、心が折れた主人公が多くて、そんな彼らが、本当に再生できたか、その後成功したかどうかはほとんど書かれることがないように思える。ただ、そこに至るまでの心の動きが、すごく丁寧に描かれていると思う。

 

主人公が自身の陥っている状況を自身が「受け入れる」ところから始まって、その状況を咀嚼して冷静に自分と周りを見直して、前向き/右肩上がりではないけれでもフラットな状態にはなって、新たなスタートラインに立つか立たないか…

 

「描く」と表現したのは、心の状態が文章で書いてあるのではなくて、読者に主人公の心が伝わるように会話や行動が描かれているから。そこが、すごくいい。小説の中の世界に浸ってしまう。

 

また、その小説の中の世界が、すごく現実にありそうな、共感できる世界だというところが、ついつい一気読みしてしまう原因のような気もする。

 

かつて、周囲から大いに期待されていた主人公。それが、自他ともに思い描いていた明るい未来に到達できず、その期待が、落胆に変わることの恐怖。かつて自分をちやほやしてくれた(ように見えた)人たちが、気が付いたらすごく先に進んでしまっているという焦り。主人公に比べたら、かつてぼくに寄せられていた期待など本当にちっぽけなものだったと思うけど、それでも、その期待にいまだ応えられていない、現状を話せば相手を落胆させてしまうのではないかという怖れは、理解できてしまう。たとえ、その「怖れ」が、本当に、本当に必要ないものだということを頭ではわかっていても。

 

そんなときにかけてほしい言葉は、頑張れ、でもなければ、きみにはできる、でもないし、みんなそんなもんだよ、でもない。ただ寄り添って、黙っていてくれればいい。

 重松清の小説には、そういう優しさと、結局は自分を再生できるのは自分でしかないという真理があるような気がする。

 

みんなのうた (角川文庫)